京都府長岡京市の古墳


走田9号墳 【市史跡】

 長岡京市奧海印寺の寂照院本堂北側にあります。本堂建設時に調査されましたが、石室の遺存状態が良かったため、石室だけ保存されることになり、立派な保存施設も造られて自由に見学できます(有料)。元々は、径12mの円墳で、横穴式石室は現存長5.3m、玄室長3.05m、幅1.9m、高さ2.3m以上、羨道長2.3m以上、幅1.5mの両袖式で、床面には礫が敷かれ、組合せ式石棺の底石と小口側石材が残されていました。七世紀初めの築造ですが、長岡京造営時に石室材、石棺材が抜き取られたと考えられます。なお、もともと、寂照院にあった7号墳出土の家形石棺は、現在長岡京市埋蔵文化財センターに移されています。

石室正面

石室側面

石室奧から

埋蔵文化財センターの7号墳出土石棺


長法寺七ツ塚古墳群

 長岡京市長法寺北畠、府道大山崎大枝線から東の住宅街の中に7基の古墳が一直線に並んでいますが、墳丘が残っているのは5、6号墳の2基のみです。5号墳は、七ツ塚公園の中にある一辺18mの方墳で、周濠が存在しました。主体部は木棺直葬です。すぐ東の道路沿いにある6号墳は径9mの円墳ですが、墳丘はかなり崩れています。

5号墳

6号墳


山ノ下古墳石棺

 長岡京市長法寺、府道大山崎大枝線の交差点脇に、組合せ式石棺の底石の一部が、無造作に置かれています。その西50mに存在した山ノ下古墳出土の石棺材で、現地には現在公民館が建っています。

 


光明寺石棺

 長岡京市粟生、光明寺境内にあります。境内の古墳から出土したと思われるくり抜き式長持形石棺が本堂の前に置かれていて、江戸時代にはすでに今の位置に存在したことが記録でわかります。寺では、法然の石棺と伝えられ、石棺からから光明が発したという言い伝えから寺の名前が来ています。

1780年刊行の「都名所図会」に描かれた石棺

丸みを帯びた美しいデザイン

蓋の裏にも深い彫り込みがある and 監視員


薬師堂古墳石棺

 長岡京市今里の薬師池のほとりに宝篋印塔があり、その台石に組合せ式石棺の底石が使用されています。近くにかつて存在した薬師堂古墳出土と伝えられますが、現状では草に覆われて、実物は確認できません。

 


カラネガ岳1号墳

 長岡京市粟生、光明寺の西500mの丘陵上にありますが、場所が大変わかりにくいので、行き方は「古墳とかアレ」を参照してください。径14mの円墳で、竹林の中の作業小屋の後ろに保存状態の良い横穴式石室が開口しています。全長8.7m、玄室長3.3m、幅1.2m、高さ2.1m、羨道長5.4m、幅1m、高さ1.5mの両袖式ですが、袖部はほとんどありません。調査時、入口には閉塞石が一部残っていました。幅に対して高さが高く、そのためか、側壁は土圧で大きく傾いています。所有者の先代の方が埋もれていた石室から土砂を取り除き、現在まで、きちんと維持してこられたそうです。頭が下がります。

石室開口部

羨道

玄室奥壁

奧から


今里大塚古墳

 長岡京市天神五丁目(旧大字今里字大塚)の住宅街の中にあり、今里大塚古墳公園として整備されています。現存径45mの円墳ですが、周濠の痕跡から前方後円墳の可能性が大きくなっています。主体部は巨大な横穴式石室で、玄室長5.5m、幅3m、高さ3.6m、羨道長7m以上、幅1.7m、高さ2mの両袖式、床面は排水溝の上に石を敷き詰めています。羨道から二上山の凝灰岩製組合せ式家形石棺の破片が見つかりました。府内では蛇塚、双岡1号墳につぐ規模で、特に天井石の巨大さには唖然とします。長岡京の造営で、羨道部の石材が持ち去られています。石室は現在埋め戻されて、天井石の一部だけが露出しています。七世紀前半、乙訓地域最後の首長墓です。だけど、これほどの古墳が史跡指定されていないんですよねえ。

墳丘の現状、版築で造られていました

現在、玄室天井石の一部露出

調査時の石室、巨大すぎる天井石

奧側から、手前の天井石は落下しかかっている

玄室奥壁、これでも床面が半分埋まってます

玄室奧から外、前壁もでかい!


今里車塚古墳

 長岡京市今里四丁目、発見時、すでにほとんど削平されていて、現在は完全に痕跡が地下に埋もれて、今里バス停の横に説明板が建っているだけです。五世紀前半の全長75mの前方後円墳で、盾形周濠が巡ります。

  本屋の位置が後円部


芝古墳群

 長岡京市井ノ内頭本と京都市西京区大原野石見町の境にある竹林内に分布する古墳群で、14基からなりますが、まともに残っているのは1号墳くらいです。1号墳は全長32.6mの前方後円墳で、竹に覆われて、全体像が見えません。墓地の南にある3号墳は径5mの円墳です。ほかはわずかな高まりがある程度です。

1号墳

3号墳


井ノ内稲荷塚古墳(乙訓古墳群) 【国史跡】

 長岡京市井ノ内小西、西山高校グラウンド東隣りにあります。全長46m、後円部径19.5mの前方後円墳で、埴輪、葺石はなく、墳丘はすべて盛り土で段築も見られません。埋葬施設は後円部に横穴式石室1、前方部に木棺直葬1が見つかりました。横穴式石室は埋め戻されていますが、全長10.2m、玄室長4.4m、幅1.8m、羨道幅1.2mの右片袖式で、上半分が失われていますが、乙訓郡では最大級の規模です。石材は長岡京造営時に抜かれたと思われます。六世紀前半の築造と推定されています。

墳丘の現状

横穴式石室


井ノ内車塚古墳(乙訓古墳群) 【国史跡】

 長岡京市井ノ内頭本、上記の芝古墳群とは道をはさんで東側の竹林中にあります。位置的には同じ古墳群とみていいでしょう。全長39m、後円部径24m、前方部幅26mの後期の前方後円墳で、後円部西側に造出しが付きます。後円部、前方部ともに大きな盗掘坑があり、過去に陶棺片が採集されています。2016年に、主体部などを解明するための調査が実施され、後円部から横穴式石室の一部を検出しました。ほとんど石材を抜かれていましたが、玄室左側壁の一部と裏込め石などが残っていました。推定規模は玄室長4m、幅2mで、近隣の芝古墳、井ノ内稲荷塚古墳と共通する右片袖式でした。

調査前の姿、後円部が大きく陥没している

2016年の調査時、前方部から後円部

後円部の調査区

横穴式石室の正面付近から

わずかに残る玄室左側壁


恵解山古墳 【国史跡】

 長岡京市勝竜寺、長岡第八小学校の西隣りにあります。全長128m、後円部径60mの前方後円墳で、周囲には幅30mの周濠が巡る乙訓地域では最大の古墳です。墓地として利用されてきたため、墳丘は改変が著しいですが、史跡公園整備のための調査の結果、葺石、円筒埴輪列が場所によっては良好に残っていました。前方部墳頂には多量の鉄製武器を納めた区画が発見されています。五世紀前半の築造です。

右側が前方部

検出された前方部の南西端

前方部上の鉄製武器類出土地

前方部テラスの円筒埴輪列

 2014年に保存整備工事が終了し、10月26日に史跡公園としてオープンしました。

 

造出し

後円部から前方部と造出し

前方部


鈴谷遺跡

 長岡京市奧海印寺の京都第二外環状道路建設の事前調査で、2010年に小規模な横穴式石室1基を検出しました。全長3.5m、玄室長2m、幅0.6mの無袖式で、床には礫が敷かれ、玄室と羨道は小さな袖石で区画されています。天井部は失われていましたが、入口には閉塞石が残っていました。墳丘はまったく残されておらず不明ですが、径10mほどの円墳と思われます。七世紀後半頃の築造で、乙訓地域では今の所、最後に築かれた横穴式石室です。また、調査区域内で四世紀の家形石棺の破片が見つかり、近くに未発見の前期古墳が存在するかもしれません。

石室全景

玄室内部


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