京都府城陽市南部の古墳


芝山古墳群

 城陽市富野中ノ芝周辺の古代北陸道沿いに分布する群集墳で、30基以上確認されています。2018年に新名神高速道路の予定地内の調査で、古墳2基が発見されました。L地区の古墳1は径9.5mの円墳で、幅1mの周溝が巡ります。埋葬施設は木棺直葬で、副葬品がほぼ原位置で残っていました。出土した須恵器から六世紀後半の築造と推定されます。G地区の古墳2は径26.7mの大きな円墳で、周溝が巡りますが、西側1/3は消滅しています。埋葬施設は削平されていましたが、周囲に土坑墓が3基見つかりました。出土した須恵器から六世紀後半〜七世紀初頭の築造と思われます。

古墳1、径9.5mの円墳

古墳2、径26.7mの円墳

 2019年の調査では、後期の方墳2、円墳4基が新たに発見されました。同じ群集墳の中で、五世紀後半から六世紀前半にかけて、方墳から円墳へと古墳の形状が変遷していく過程を示す貴重な事例となります。古墳1は五世紀後半の径19mの円墳で、木棺直葬。古墳2は六世紀前半の径20mの造出し付き円墳で、木棺直葬。出土遺物も豊富で、地域の有力者の墓と思われます。古墳3は周溝の一部のみ残存。古墳4は五世紀後半の径17mの円墳。古墳5は五世紀後半の一辺10mの方墳で、木棺直葬。古墳6は推定一辺9mの方墳で、周溝の一部のみ残存。木棺はすべて赤色顔料が塗布されていました。

古墳1、円墳、土坑に須恵器が固まって出土

古墳2、円墳、奧側に造出し

古墳3、円墳、前日の雨で周溝がわかりやすい

古墳4、円墳

古墳5、方墳

古墳6、方墳の一部


黒土古墳群

 城陽市中黒土の中天満神社境内に1号墳、背後の林の中に2〜10号墳があります。1号墳は市史跡に指定されている1999年に調査された径26mの円墳で、主体部は大型の横穴式石室です。全長9.7m、玄室長4.9m、幅2.47m、高さ3.8m、羨道長4.5m、幅1.3mの両袖式で、玄室はやや胴張り状で高さがかなりあり、珪石、ホルンフェルス、花崗岩を使用しています。土器、馬具、鉄鏃のほか、石棺片と見られる凝灰岩の破片が見つかっています。天井石は明治時代に外されたようです。六世紀後半の中頃の築造と見られます。他の古墳は、状態が良くなく、内容も不明です。

1号墳

1号墳石室実測図

1号墳横穴式石室(調査時の姿)

1号墳石室天井石


茶臼塚古墳

 城陽市と井手町の境界線上にあり、2012年の開発に伴う調査で、大型の横穴式石室が発見されました。上半分と玄室石材の多くを失っていますが、全長12m、玄室長4.5m、幅2m、羨道長7.1m、幅1.5mの両袖式で、石材は花崗岩やホルンフェルスの巨石を余り加工せずに使用しています。床には礫が敷かれていて、排水溝の痕跡もありました。墳丘は後世にかなり改変されていますが、径20mくらいの円墳と思われます。出土した須恵器の破片から六世紀終わり頃の築造で、六世紀中頃の巨石墳である、黒土1号墳に続いて築かれた首長墓です。石室は移築保存される予定です。

全長12mの大型石室

石室正面

玄室奧から、かなり石を抜かれている

玄室から羨道、袖部はほとんどない


寺田石棺仏(歯痛地蔵)

 城陽市寺田、近鉄寺田駅の北東100m、京都信用金庫北側の路地を入ったところにあります。京都府唯一の石棺仏で、1.7m×1mの石棺の底石に釈迦如来座像を浮彫していて、両端部には溝も残っています。鎌倉時代頃の作風で、以前は用水路の橋に使用されていたため、橋板地蔵と呼ばれていたのが、いつのまにか歯痛地蔵に変化し、現在も信仰されています。地蔵と呼ばれていますが、内容は釈迦如来です。


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